2012/01/25 (水)

13日金曜日(5)

この日は私の誕生日。もうあえて年は明かしますまい。古稀がもう直ぐ・・・とだけ。

訪中前に干黛琴女史に話したら2人で小さなケーキで祝いましょうねという返事でした。しかし連日の強行軍ですっかり忘れ、私は朝ホテルのバイキングで一人「今日生誕した中国の地(私は撫順生まれ)にいる」と言い聞かせたのみでした。

その夜は大連賓館(旧ヤマトホテル)で宋副主席などお招きして私主催の食事会をしました。すっかり上機嫌、満腹でホテルへ戻り、明日北京へ向かう準備をしないといけないと急ぎ部屋をあけると〜〜〜。テーブルに置かれた大きなケーキは何じゃ!!

「干さん、ナイショでこんな事して。お腹、満腹じゃない!!」と大声で呼び出したら「私 知らないよ」と。さあそれからが大変。推理して大連関係の方に電話しまくったが皆さん知らないとばかり。思案の末ホテルに聞いたら「私共からのお祝いです」と。

粋な事をしてくれるんですね!!とても喜びましたが さあ満腹+この大きさ+暖房。とうとう再度ホテルの調理場へ預かってもらいました。翌日関係者の皆さんでどうぞと丸ごと差し上げました。   13日バンザーイ(〜〜〜何が?)
写真:(ホテルのフロント嬢も「おめでとうございます」と。それにしてもケーキ以上のデカ顔・・・)



入り口(4)

由緒ある芸術学校の佇まい。新校舎が横に建設中ですが舞台はまだ手付かずでした。世界中の皆さんの汗と不屈の精神力がしみこんだここで大連最初の舞台が出来るのはにとても光栄な事です!
次第にそう思えて今では汗が届く距離の舞台で皆さんの顔を見ながらやる楽しみを増幅させています。
写真:(校門前)1<hr>

大連芸術学校(3)

学生のみならずプロで頑張っている俳優さん、それを目指しているタレント達へも見せてはどうだろうか〜〜話は早く早速市内の歴史ある芸術学校へ。

年期の入った舞台。生徒がいないせいかやたらほこりが目立ち「ここがぁ?」。一瞬口淀んだ私は日本の私のスタッフ達の声が聞こえて来るようでした。
「ちゃんと舞台が出来る所にして下さいよ」と。

校長に伺うと著名なフランスのパントマイム、アメリカのミュージカル、中国の名だたる京劇などが上演した由緒ある所だそうな。
イヤハヤ外見だけで判断してはいけません本当に・・・
写真(ダンサーでもある馬校長(右)と左は宋副主席)



大連大学にて(2)

事前に送っていた依頼書・台本などに目を通してこの舞台は大連大学日本語学科方面へ話を持っていくのが最適と判断された宋副主席は、翌日早朝私達を郊外の大学へ案内してくださいました。

市内から45分くらい。広大な敷地、後ろは直ぐ山。春節前で学生の姿は殆どない。ここの宋協毅副校長は見事な日本語を操られていました。名古屋大学の修士迄進まれ専攻は教育学とか。訛っているのは私のほうで美しい日本語をここでも再発見!

博物館へ案内されると・・・オヤッ、電光掲示板になにやら『神田幸子女史〜〜」と読める。私の訪問をこうして掲示しながらの歓迎でさすがここは中国、を再確認したのです。
 写真:(左から2人目が宋協毅副校長。歓迎掲示板をバックに私は上の石段にすばやく〜〜)



帰国一週間経って〜〜(1)

無事霧で霞んだ(スモッグという方も)北京から戻りました。
大勢の関係者にお会いして喜びと共に背負いきれないくらいの責任で日々思いを馳せていると坐骨神経痛がひどくなったみたいです(苦笑)

12日大連へ。かなりの頻度で海外へ行っている私が久々ポカをしました。入国許可証と出国の時提出する書類を「シャアシャア」と間違え涼しい顔して監理官のところへ進んだのです。書類が違うと言われても「ハアッ??」。何のこと??
同行の干女史が「何やってるの!」とにらみつけると私の狼狽ぶりは更に。だって早〜〜くからパスポートと共に手持ち準備して一番乗りで通過できると信じていたんですもの。

〜〜ホテルのロビーではもっと厄介な事態になりましたが、まあこうして笑い話で言えるように成りましたので敢えて書きますまい・・・。

これから要人と会うというのに先が思いやられる!!
  写真:(大連文化聯誼会宋副主席と)


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